※片方の様子がおかしいと思ったらもう片方も様子がおかしい二人の(恐らく)ゆるい話

「稲末くん。職員室に行くから、少し席を外すね」 仕切りの役割として設置されたカーテン越しに声をかけられた稲末春澄(いなまつ はるすみ)は、少し掠れた声で小さく返事をする。養護教諭はそれを聞き取ると、静かに保健室を出ていった。  扉の閉まる音を確認した春澄は、今まで寝そべっていたベッドから起き上がり、床に置いてある自分の上履きの真上に向けて足を降ろす。ゆっくりと片足ずつ履くと、カーテンを控えめに開けて外を眺めた。 「……もう、部活始まってる」  彼がぽつりと呟いた言葉は一人きりの保健室に吐き出され、外から聞こえてくる部活動をしている生徒たちの声に紛れて共に消えていく。保健室の方を見ようとする人間は、今のところ誰もいなかった。 校庭側のベッドは、平日の五日間のうち三日間、彼の定位置として使われている。今日はそのうちの一日で、本来ならば生徒達の受けている授業と同じ教科の自主学習を同じ時間だけすることになっていた。 しかし、六時間目を仮病で休んだ春澄はベッドの中で時折まどろみながらも、六時間目が終了するのを今か今かと待っていた。理由は至極簡単なものだ、部活動を行う明日三 咲良(あすみ さくら)を見たいが為。 よほどのことがない限り、咲良は部活動を欠席したことがない。それ故に、今日も間違いなく校庭で部活動にいそしんでいるはず。 養護教諭がいなくなった今、ようやくベッドを出て、咲良を見ることができる。あわよくば校庭へと顔を出すこともできてしまう。……できてしまうのだが、生憎とローファーは下駄箱にあり、それを取りに行くことはできない。他の生徒と顔を合わせてしまう可能性があるからだ。それでは、わざわざ登校時間を少しだけずらしている意味が無くなってしまう。 クラスメイトや一部の生徒は春澄が保健室登校をしていることを知っている。当然他クラスや他学年の生徒は知らない者の方が多いが、それでも、だからこそと言おうか、クラスメイトと会う可能性はゼロではないのだ。 校庭へ出ることも殆ど同義ではないかと言われれば確かにそうだろう。だが春澄にとっては、デメリットよりもメリットの方がずっと大きかったのだ。 下駄箱へローファーを取りに行ってクラスメイトや事情を知る者と遭遇するよりも、不特定多数の生徒がいる校庭へ出て咲良の姿を見る方がずっといい。仮にそこで姿を見られても構わないとさえ思っている。 春澄が校庭側の保健室の入り口を開けると、柔らかな春の風に出迎えられた。春にしては少々熱を持ったそれは、乾いた地面から土埃を舞いあがらせており、少しだけ顔を顰めてしまう。振り返って入り口のガラス戸を閉めると、咲良の所属する陸上部が活動をしている場所を目指して歩き出した。 保健室から陸上部が活動している場所までは、ある程度の距離がある。そしてほぼ真反対に位置していた。 授業でも使われている校舎のほぼ真横にある校庭を通り過ぎ、体育館、道場、屋内プールなどの並びを横目にまだ先を目指して歩いていく。テニスコートが見えてくればもうすぐだ。その横に、陸上用のトラックが設置されている第二グラウンドがある。 春澄と咲良が通う高校はスポーツに力を入れており、校庭や体育館が広く作られていた。それに加えて、比較的新しく常に綺麗に保たれ、良い設備が整えられている。入学してまだ間もない頃、全ての運動部の活動を見学するのに苦労したことを、春澄はよく覚えていた。 「あ……」 ホイッスルの音、靴底がトラックを蹴る音、ハードルやバーが揺れる音、生徒達の掛け声。沢山の音に溢れて、沢山の人で溢れているなかで、春澄は咲良をすぐに見つけた。初めからただ一人だけを探していて、言い方は悪いが周囲の生徒になど少しも興味がないのだ。当然だと言っても差支えはない。それでも、こと咲良を見つける行為に関しては非常に長けていると言えるだろう。 春澄の視界に映る咲良はぱちぱちきらきらと瞬いており、スポットライトが常に当てられているような、そんな見え方をしているのかもしれない。 フェンス越しに食い入るように見つめていれば、丁度走り切ったらしい咲良が不意に顔をあげて手を振ってくれた。春澄も控えめに手を振り返せば、嬉しそうに笑い返してくれるのだ。それがただただ嬉しくて、春澄は自分の頬がだらしなく緩むのが分かる。 互いに少しの間見つめたままでいると、咲良が誰かに呼ばれたようでそちらへと動き出した。去り際に名残惜しそうに微笑まれてしまえば、春澄も見送るしかない。 少しだけ残念に思った部分は勿論あったが、仕方のないことだと理解していた。むしろこれから咲良の走る姿を見ることができるのだろうと考えれば、残念に思う必要はないのかもしれない。 真剣な顔で先だけを見据えて走る姿は、普段の穏やかな彼からは想像もつかないほどなのだ。自然と応援したくなってしまうというか、目を奪われてしまうというか。春澄自身もあまりよく理解していなかったが、別にそのままでいいと思っていた。好きであることに変わりはないのだから、理由などどうでもいいのだ。 「六時間目、サボってよかった」 春澄は無意識のうちにそう零していた。走っている咲良も、走り終えた咲良もしっかりと視界に捉えながら。 フェンスを掴んだ手をそのままに、両手の甲へ額をぶつけるようにして、くたりと前へ寄りかかる。かしゃんと音を立てて微かにフェンスが揺れた。きっと誰も気に留めない程度のものだ。ボールが当たることなどは日常茶飯事なのだから、ここで部活動を行う者達は多少の揺れや音には慣れきっているだろう。 咲良を見ていた春澄の頬はひどく熱を持ち、すぐには冷めてくれそうにないことは明白だった。気付かぬ間にそれだけ興奮していたのか、それともまた別の理由なのかは分からない。フェンスからゆっくりと体を離して両手を自分の頬に押し付けると、冷えた手が熱をじわりと吸い取っていくのを感じた。だが、それもすぐに意味がなくなってしまって、今度は手の甲を押し付ける。 次第に少しも意味がないことに違和感を抱いた春澄は内心で首を傾げた。頬だけ、というよりも体全体が熱を持っているように感じたのだ。それでは手を当てた程度で冷めるはずもない。焼け石に水だ。 一つ一つ気付いていけば違和感はどんどんと溢れてきて、今度は心臓が脈打つのが体ごとしている気も、視界が歪んでいるような気もしてきた。 春澄はとうとうぐらりと大きく体を揺らして、そのままその場に倒れ込んでしまった。彼があれ、と思った時には既に遅かった。不幸にも今日は春の陽気とは言い難い気候だったのだ。時刻は夕方に差し掛かっているが、日差しは弱まることなく容赦なしに降り注いでいる。 部活動を行う大半の生徒達が半袖でいる中で、春澄はしっかりとカーディガンを着込んで、直射日光をしばらく浴びていたのだ。加えて、急激な気温の上昇に体がついていけていないのもあったのだろう。 春に熱中症になるなんてことあるんだ、とぼんやりとした頭で考える春澄。まともに思考することも、あまりできていない。近くにいた生徒の困惑の声と、遠くから聞こえた自身の名前を呼ぶ声を耳にする。視界がぼやけて、意識も次第に薄れていった。

「……あれ」 「春澄?」 名前を呼ばれた春澄が目を覚ますと、そこは彼がよく見知った保健室だった。ベッドに寝かされ、頭の下や太い血管の通っている箇所にタオルに包まれた保冷剤などが当てられている。やはりと言おうか、春澄が考えた通り熱中症だったのだろう。そして、ベッドの横に椅子に座った咲良がこちらを見つめていた。 つい先ほど――正確な時間は不明だが――倒れる前に遠巻きに見ていた彼がすぐそばにいることに、春澄は密かに喜びを覚える。 「部活、は」 「もう終わったよ」 「え」 「飲み物買ってきたから、飲めそうなら飲んで」 「……うん」  咲良に支えられながらゆっくりと体を起こし、手渡されたペットボトルを受け取る。青いラベルの、見慣れたスポーツ飲料だった。春澄がそれを傾けて飲んでいくと、程よい甘さが口の中へと広がっていく。ひんやりと冷えた液体が喉を通り胃へと落ちていく感覚が、どこかくすぐったく思えてしまった。 数回に分けてスポーツ飲料を飲んでいき、一息ついたところで咲良が春澄に話しかける。 「頭とか体とか打ってない?」 「たぶん」 「後から痛むこともあるから、その時はすぐに伝えてほしいって」 「分かった。ありがとう、咲良」 「気にしないで」  迷惑をかけてしまったという意識がある春澄は、うまく咲良の顔を見られずにいた。すぐそばにいるのが嬉しいのに、自分に優しくしてくれている理由が分からない。 聞こえてくる声音も口調も至極穏やかなもので、誰が見ても咲良が怒っているとは思わないだろう。春澄の希望的観測な部分もあるのだが。 (変だな、怒っていないのかな……それに、誰が運んでくれたんだろう、知らない人だったら嫌だな) 「……」 春澄が黙り込んでしまったのを見ながら、咲良は彼が目を覚ましてくれたことに安堵し、ひっそりと息を吐き出す。上手く呼吸ができていなかったのかも、と自嘲気味に思った。しかしそれも仕方がないだろう。 ――グラウンドで倒れた春澄を運んだのは咲良だった。 春澄から視線を外しトラックを走り切った後、息を整えながらもう一度そちらへ視線を向けた。すると頬に両手を当てていて、熱を冷まそうとしているんだろうなと、見慣れた癖に微笑ましくなる。 しかし、いつもよりそれが長かった。単に普段よりも熱いだけの可能性は当然あったが、咲良が違和感を覚えた次の瞬間には春澄の体がぐらりと揺れて、倒れ込んでしまったのだ。 「春澄!」  咲良は思わず走り出した。彼の周囲には生徒がまばらに集まってきていて、声をかけたり教師を呼びに行ったりと少し騒動になっている。春澄の元へ辿り着くと顔を真っ赤にして苦しそうにしていて、サッと血の気が引いていくのが分かった。嫌な汗が背中をつたっていき、喉がからからに乾いて張り付いていく。 それでも確かに周囲にいる他の生徒が運ぶだとか、教師がすぐ来るだとかいう声が聞こえてきて、咲良はすぐに春澄を抱き上げると保健室へ向かった。 勿論、全く怒っていないと言えば嘘になる。それより心配が勝ってしまったというだけのことだ。服装を間違えるなんて誰にでも起こり得る失敗なのだから。 加えて、咲良も春澄が自分の姿を見に来てくれたのが嬉しくて強くは言えない部分もあった。咲良としては自分のことなどどうでもいいから、春澄自身のことを一番に考えて心配してほしいというのが本音だ。 しかし、春澄の中にいる自分を否定してしまうのは、十中八九彼を傷つけてしまうことを理解していた。気を付けて欲しいのは確かだが、まだあの瞬間の恐怖が拭いきれていないせいなのか、咲良も春澄にかける上手い言葉が見つからなかった。 「明日三くん、カーテン開けるよ」 「はい」  今まで席を外していた養護教諭が戻ってきたらしい。カーテン越しに声がかけられ咲良が返事をすると、春澄が起きていることに安堵の表情を浮かべた。 「良かった、稲末くん目が覚めたのね」 「は、はい」 「具合は?」 「ちょっと熱い、かも」 「顔の赤みもだいぶ取れてる。軽度ではあったけど、油断はしちゃ駄目だからね」 「気をつけます」 「親御さんに連絡はする?」 「しないでください、もう歩けるから」 「分かった。今日は涼しい所にいて、水分補給を欠かさないこと」 「はい」 咲良が立ち上がり、春澄もそれに続くようにベッドからゆっくりと降りる。その間も咲良がそばを離れず、すぐに手を差し伸べられるように見守っていた。 二人はテーブルに置かれたスクールバッグと、床に置かれたエナメルバッグの方へと進んでいく。先ほどの言葉通り、春澄はきちんと歩くことができるようだった。 「外暗いから二人とも気を付けて帰りなさいね」 「ありがとうございました」 二人は声を揃えてお礼を告げて軽く頭を下げる。廊下に出ると、日が落ちており養護教諭の言葉通りに辺りは暗くなっていた。暑さはすっかりとなりを潜めているようで、春らしい肌寒さすら感じるほどだ。 「もう殆ど皆帰ってるから大丈夫だと思う」 「そっか……もうそんな時間なんだ」 「先生も言ってたけど、だいぶ暗いね」 「ね」 下駄箱から靴を取り出して履き替えると、二人は生徒 のいない敷地内を歩いて正門を抜けていく。 「涼しい」 「うん」 咲良の呟きを律儀に拾った春澄が短く返すと、そこで会話が終わってしまった。普段ならもっと沢山の会話が二人の間ではされている。春澄は手持無沙汰にスポーツ飲料の入ったペットボトルをぶらぶらと揺らしていた。 「……誰が運んでくれたの?」 次に口を開いたのは春澄だった。ずっと気になっていたことだったのだ、咲良の返答次第では明日以降も更に頭を悩ませることになってしまう。 「僕だよ」 「そうなの」 「うん。急に倒れたからびっくりした」  前を向いたままの咲良の横顔を見ながら、春澄は言われてみれば気を失う前に自分の名前を呼ぶ声が聞こえたなと朧気に思い出した。確かに、苗字ならまだしも名前を呼ぶのは咲良ぐらいしかいないと言える。 「ごめん」 「いいよ」 ぐるぐると思考して悩んでいたものがふっと消えたことに春澄は安堵した。でもやっぱり、咲良へ更に迷惑をかけていたことも分かって顔を俯かせる。 「今日暑かったからね」 「うん……あの、怒ってる?」  春澄がおずおずとそう聞けば、今度は咲良が彼の横顔を見ながら言葉を続けた。 「心配した」 「ごめん」 「うん」 「あんなに暑いと思わなくて、カーディガン着たままで」 「そうだね」 「朝はあんまり普段と変わらなかったから」 「確かに」 「……咲良、怒ってる?」 「またその質問?」 咲良はふっと笑いながら言う。確かに、自分の返す言葉がどれも短く素っ気ない自覚はあった。先ほど保健室にいた時は春澄にどんな言葉をかけるべきかと悩んでいたのだが、態度に出すのが一番効果的かもしれないと思いついてしまって。彼にしてみれば少々酷な方法ではあるが、そんな方法を取ろうと思ってしまうくらいには肝を冷やしていたのだ。咲良は自分の性格の悪さと、矛盾した行動に嫌悪感を覚える。 「うん……」 「ちょっとだけね」 「ごめ、ん」 「いいよ。でも、気を付けて欲しい」 「うん」  春澄はしゅんとした表情をしながらも、咲良の言葉に頷いて見せた。反省だとか、後悔だとか、歓喜だとか、色んな感情が綯い交ぜになっているのだろう。先ほどまで揺らしていたペットボトルをぎゅうっと握っている。咲良はその手元を見て、自分の想像通りであったことを受け止めた。それが良かったようで悪くもあった。 「すっごく焦って、びっくりしたんだ」 「そう、なんだ」 「……僕が同じように倒れたら、どうする?」 「え、あ、え、えと」 「ふふ、もう焦ってる」 「す、すごく」 「ね?」 「うん」  咲良がくすりと笑うと春澄もほっと息をついてから、やっと微笑む。きっと自分には咲良と同じような対応はできないけど、少しでもできることをしようと密かに心に決めて。これは伝えるつもりのないことだ。……恐らくその内筒抜けになっていくのだろうが。 咲良はなんとなく春澄のすることが何に繋がっていくのかを分かっていたし、春澄も咲良に教えてと言われれば全て洗いざらい吐き出してしまう節があった。 話をしているうちに、だいぶ歩いてきていたらしい。二人はいつも別れている場所であるアパートの前までやってきていた。立ち止まり、咲良が春澄の頬に手の甲をそっと当てる。少しだけ冷えた手が優しく触れてきて、春澄はぱちぱちと瞬きをした。 「もう熱くないね、良かった」 「ほんとう?」 「うん。ちゃんと涼しくして、沢山お水飲むんだよ」 「わかった」  春澄が頷くと咲良は満足そうに笑った。そうして、触れたままの手の甲で春澄の頬をゆるりと撫で始めれば、だんだんと顔が赤くなっていく。それを本人はしっかりと自覚しているのだろう、恥ずかしいとも困っているとも取れる表情を浮かべた春澄の視線は、咲良から外されてうろうろと彷徨い始めていた。 「さ、さくら……」 「ごめん、また熱くなっちゃう。また明日ね」 「うん、また明日……ばいばい」  小さく手を振ってから、ポケットからシンプルなキーカバーとキーホルダーのつけられた鍵を取り出す。咲良も同様に自身のエナメルバッグに入れている鍵を取り出した。二人は同じアパートの、同じ階層の、横並びの部屋にそれぞれ入っていった。 「ただいま」 誰もいない部屋だ。どちらの部屋も住んでいる人間はたった一人だけ。やや壁の薄いこのアパートの一階に住んでいるのは現状二人だけだった。だから、部屋に入った瞬間の「ただいま」だけは、少しだけ声を張ることにしている。特に相談をして決めた訳ではなく、うっすらと聞こえてくる声がまだ別れていないような気にさせてくれたからだった。壁一枚隔てた向こう側に暮らしていて、そんなことをしなくても会えるというのに。 「おかえり」  そう返す声はどちらも限りなく小さい。誰もいない部屋に向けて発したはずの言葉に返答があったら、あまりにも不可解だろう。それに相手に声が聞こえていると、聞かせているとバレてしまう。お互いにそれだけは避けたかった。気恥ずかしさと、気まずさがあったからだ。

咲良と春澄は高校で初めて出会った。特別仲が良いとか、長い付き合いがあるとか、そういうものは一切ない。期間だけで関係性を見るならば比較的短いと言える。 同じアパートに、しかも隣同士で住んでいるのは単なる偶然だった。引っ越してきた期間も違えば、登校時間も違って、アパートの前で会うことはなく、二人が顔を合わせて会話をしたのは登校初日のことだった。 かなりの生徒が登校してきている時間帯で、春澄は自分のクラスや教室を確認できずに困っていた。そこへ咲良が声をかけたのがきっかけだ。 「どうしたの? 何か困ってる?」 「あ、え、っと……クラス、分からなくて」 「貼りだされてる……のは見られないね」 「う、うん」 「門の所で配ってた、案内のプリントにも載ってるよ。さっき二枚貰っちゃったからあげる」 「え……いいの?」 「もちろん。二枚もいらないから」 「ありがとう」 咲良は春澄があまり会話をするのは得意ではなさそうだと感じて、その場で別れるつもりだった。だが、気遣った本人から「一緒に行こう」と誘われてしまっては断れない。自己紹介に始まり、出身地や中学校の話をして、互いのクラスへと向かった。そう、不幸にも(春澄にとっては)同じクラスではなかった。咲良は残念だな、程度だったのだが、咲良の想像通り所謂コミュ障であった春澄にとってはかなりの絶望だった。 その後も二人は何かと関わる機会が多くあったが、その殆どは咲良が困っている春澄を助けるというもので。確かに、間違いなく同い年であるはずだったが、咲良は何故か自分にはいないはずの弟の面倒を見ているような感覚になっていた。友達であるはずの相手に抱くには少々不思議なものだと自覚はしている。元来の性格の良さが招いた結果だろうか。 咲良にしてみれば、友達だったのだが。春澄から返ってくる反応は、どうにもそれとは違うようだった。すれ違う時に声をかければ、どこか恥ずかしそうにして頭を下げる。それは咲良が別の生徒といる時によく見られた。 春澄は咲良に声をかけて貰えるのは大変嬉しかったのだが、どう反応を返すのが正解なのかが分からず、彼の中で当たり障りのない会釈で済ませていた。それに加えて、咲良の友達に自分の顔を認識させないようにする意図もあった。それは、咲良が自分みたいな人間と関係があると思われたくなかったからだ。 何となくは咲良も理解はしていたのだ。春澄は人と接するのが恐らく得意ではないだろうから、そういう何とも言えない反応を見せているだけなんだと。 だけど、何というか。ちょっとだけ不満だったのだ。自分の顔を見て、自分を見つけて、自分に声をかけられて嬉しそうにする癖に、それが恥ずかしいことであるように振舞っているみたいな反応が。 クラスも違い、合同授業もなく、咲良は部活動で放課後の時間は拘束されている。この時は連絡先も交換しておらず、どちらかが教室移動のあった際にすれ違う程度だったのだ。そんな状態では当然会話らしい会話はない。だから、機会を見つけて咲良は直接問うことにした。 「稲末くん」 「あ、明日三くん?」 「僕に声かけられるの、嫌?」 「――え?」 「いつも恥ずかしそうにしてるから、嫌なのかなって」 「あ、え、」 「そうなら今言って欲しい。もうしないから」 「あの」 「教えて」  クラスも違うのだから、見かけても声をかけるのを止めればいいだけの話だったのかもしれない。そうすれば二人の曖昧な細い関係性も簡単に途切れたはずだ。  だが、前述した通りに春澄は咲良の顔を見て、咲良を見つけて、咲良に声をかけられて嬉しそうにする。どう考えても悪い感情は抱かれていない。ちょっとの不満と、純粋な疑問を混ぜた言葉をぶつければ、全てはっきりするだろうと思って咲良は春澄に詰め寄った。 「ごめんなさい」 「え」  か細い声が正面から聞こえてくる。その声は明らかに湿った、涙に濡れた音をしている。困惑しきって、短い言葉しか発していなかった春澄が、しっかりと紡いだのは謝罪の言葉だった。……ああ、これでようやくはっきりしたぞと思いながら咲良は彼の拒絶の言葉を待つ。 「き、きらいに、ならないで」 「稲末くん……?」  ぼろぼろと涙を流し、横隔膜の痙攣で引きつったような声になりながらも、春澄は必死にそう言った。拒絶の言葉を待っていた咲良は面食らい、同級生を泣かせてしまったことに慌て始める。 「嫌じゃ、な、くて」 「う、うん」 「うれ、し……うれしい、から」 「……うん」 「きらいに、なら、……ならない、で」  春澄はぎゅうと制服のズボンを掴みながら、なんとかその言葉を口にした。涙で頬を濡らしながら自分のことを嫌いにならないでほしいと必死に縋ってくる春澄の姿はまるで子供のように見えた。相手に意思や感情を伝えることもあまり得意ではないのだろう。 ……そんな冷静な分析だけで、済めば良かったのだが。咲良は自分のことでこんなにも感情を乱す春澄に、言い知れない感情を抱いていたのだ。当然彼にとって初めての経験で、何がその琴線に触れたのかも分からなかった。 「ならないよ」 「ほん、と?」 「うん。ごめんね、ちょっと強く言い過ぎた」 「だいじょうぶ、です」  仲直りと言うべきか、何と言うべきか。少々強引な方法ではあったが、咲良が春澄に問い詰めたことによって一応は解決した。このやり取りによって生まれた様々なものは、結果として二人に大きな影響を及ぼしてしまったという弊害はあるが。 「僕、飲み物買ってくる」 「え、」 「いっぱい泣かせちゃったから。ここで待ってて」 「う、うん……わ、」 「それ被ってて」  咲良はブレザーを脱ぐと、近くの椅子に座らせた春澄に被せてから早足で自動販売機へと向かった。泣きはらした顔を見られてしまうよりはずっといいはず、という判断だった。飲み物を渡したいという咲良の気持ちに少しも嘘はないが、自分の感情に整理をつけたいというのもあって。春澄も自分が相手にしてしまったことの恥ずかしさが募り始めており、お互いに少し落ち着く時間が必用だった。

春澄は相手の感情の機微を読み取るのに慣れていた。そうでもしないと上手く生きられなかったからだ。波風立てず、相手を怒らせないように、当たり障りなく過ごしてきた。それ故に友人と呼べる相手はそういない。 今回のように感情をぶつけられるのも、ぶつけたのも初めてのことだった。自分に手を差し伸べてくれた相手をどうして嫌いになれるというのか。嫌われたくない、そんな一心で咲良と接していたのだ。 でも。どこか怒ったような、悲しいような感情をぶつけられた時に、春澄は確かに嬉しかった。咲良が離れていってしまいそうな瞬間だったのにも関わらず。 知らない感情だった。今までにこんな経験はしたことがなかった。困惑と、咲良への少しの期待。だが、彼を怒らせたり、困らせたりしまうのは本意ではない。それが原因で嫌われてしまっては元も子もないからだ。春澄は自覚してしまった確実に持て余しそうな感情を、どうにか心の奥底にしまっておこうと決めた。 「お待たせ」 「……おかえり?」  咲良の声と共に、椅子を引く音がする。隣の椅子に腰かけたのだろう。春澄はそっとブレザーを取ると、しわにならないよう気をつけながら畳んだ。 「気にしなくてもいいのに」 「うん……でも、借りたもの、だから」 「これと交換ね」  すっと春澄の眼前に差し出されたのは、青いラベルのスポーツ飲料だった。その動作で揺れた液体がちゃぷんと軽い音をたてる。 「わざわざありがとう」 「僕がしたいだけだから」 咲良がにこりと笑うと、春澄もぎこちなく微笑んだ。二人の間に沈黙が落ち、校舎の外から帰宅していく生徒達のどこか楽しそうな喧騒が聞こえてくる。 偶然にも今日は試験期間の最終日。比較的早くに帰宅できる日かつ、部活動のない日だった。HRが終わり、咲良が廊下に目を向けると、丁度どこかへ向かう春澄を見つけたのだ。そうして西棟まで二人でやってきて今に至る。 彼らがいるのは特殊教室だけがある西棟の三階で、授業がある場合を除けば人が訪れることは殆どない。周囲はかなり静かだ。普段過ごしている教室は渡り廊下を挟んで隣の東棟にあり、試験終了後にわざわざこちらの棟へ訪れる生徒はそういないだろう。 今しがた春澄へ手渡したスポーツ飲料を購入しに自動販売機へ向かい、戻ってくるまでのたった数分の間。咲良は少々早足になりながらも、必死に自分の感情に整理をつけようとしていた。 結果として自分のわがままのようなもので春澄を責めてしまって、あんな風に縋られて。咲良があの時抱いたのは否定的な感情ではなかったのだ。どちらかと判別をつけるならば、肯定的なものだった。だから尚更分からなくて、頭を悩ませていた。 咲良がああでもない、こうでもないと考えを巡らせながら自動販売機にお金を入れて、スポーツ飲料のボタンを押そうとした瞬間。ふっと春澄の泣き顔が脳裏に蘇ってきて、動きがぴたりと止まる。 大きく息を吐き出してからボタンを押すと、がこんという激しい音と共に咲良が選んだスポーツ飲料が取り出し口に落ちてきた。 「そういうことかあ……」 思わず口から出てしまった声は情けないもので、咲良はその場に力なくしゃがみ込む。それと同時に、自分の抱いている気持ちの悪い感情に嫌悪感を覚えた。 咲良は、自分の態度や言葉など一挙手一投足で春澄が一喜一憂することが嬉しかったのだ。踊らされているというか、勝手に振り回されているのが、馬鹿で可愛らしいと思った。だが、咲良は彼をそうしたいなどとは少しも考えていない。むしろ嫌悪感がある。 結果として春澄と関わることでそうなってしまっているというのが現状だった。だが、ついさっき責め立てたうえに泣かせて、勝手に変な感情を抱いてしまったから関わるのをやめるなんて、自分勝手に伝えることは咲良にはできなかった。もしもそうなれば、恐らく春澄はまた酷く感情を乱して、咲良が自覚したばかりの感情をくすぐるのだろう。そして、同じく春澄も咲良から向けられる感情に揺さぶられるはずだ。それに、お互い縁を切ろうという気は少しもない。二人はこの日からしばらくの間、表面上はなんでもないように振舞いながら、互いに自分の抱く邪なものに気付かれていないかどうか怯えながら接していくことになった。

出会ってから一年と少し経過した今では、腹の探り合いのような真似や相手に対する怯えは一切ない。あの一件があってからぐっと距離が縮まって、同じアパートであることも発覚して、登下校を共にするようになった。 そうなれば次第に名前で呼び合うようになり、お互いが抱えているものも次第に透けて見えてきている……というのは咲良だけであって、春澄はまだ咲良の抱えるものを理解していないようだった。 「咲良」 「なに、春澄」 今では休日も時間が合えば一緒にいる。今日は溜まった衣類を洗濯するべく、コインランドリーへやってきていた。それ以外にも日用品の買い物や文房具など、二人でお金を出し合うか分け合うのが常となっている。 この先も離れずにいるのかどうかは、まだ分からない。進路を決める時期はもう目前まで迫っていて、一部の生徒は既に目星をつけ始めている者もいた。二人の間にそういった会話は特にない。どちらも、離れるということを考えていないとも言えるだろう。それは離れるつもりがないとも、離れるかもしれないという可能性を考えていないとも言える、曖昧なものだった。 「一番星、出てる」 「え? どこ?」 「あそこ……もっとこっち来て」 「うん」  コインランドリーの文字が貼られた透明なガラスの扉越しに、春澄が空に向けて指をさす。咲良も言われた通りに近付くが、いまいち見つけられないでいた。古い丸椅子に座ったまま体や首を動かしていると、こつんと咲良の頭が春澄の頭にぶつかる。軽めの衝撃で二人が我に返るにはいい衝撃だった。どちらともなく吹き出して、顔を見合わせて笑い合う。背後では洗濯を終えたのか、ごうごうという低い音が止まっていた。